文化財

更新日:2023年03月31日

文化財位置図

文化財の位置図

国選定の文化財

国選定重要伝統的建造物群保存地区 若桜町若桜

瓦屋根の日本家屋や、歴史を感じる建物が街道奥まで続く中町周辺の本通り沿いの写真
漆喰に板張りの裏町通りの土蔵群が石畳の街道に続く風景の写真

若桜地区は若桜鬼ヶ城の城下町として発展し、廃城後は宿場町として人と物資の往来で発展しました。明治期に3度の大火を経験し、往時の町並みは失われましたが、2度目の大火直後の明治18年に当時の自治組織により防火対策を盛り込んだ復興計画が策定され、現在の町並みの礎となっています。

保存地区は、町の中心となる本通り沿いを中心とした約9.5ヘクタールの範囲で、明治期から昭和中期までに建てられた伝統的な町家が並び、敷地背面には土蔵が建ち並びます。主屋は2階建て、切妻造の瓦葺もしくは鉄板葺で、正面に付庇もしくは庇を長く伸ばした「カリヤ(仮屋)」が設けられ、往時は風雨や降雪を避けるためのアーケードとしての役割を担っていたといわれています。

また、本通り沿いや敷地背面に平行し、八東川から取水したカワが流れ、家の正面にイトバ(水汲み場)やホリ(貯水槽)を設けたり、カワの水を家の通り土間に取り込んで、裏のカワに排水するなど、水と密着した施設が今も残されています。

若桜地区は、明治18年の大火以降の伝統的な主屋や敷地背面側の土蔵など防火を考慮して形成された町並みが残り、自然地形を生かしながら生活と密着した用水など歴史的風致がよく維持されていることから、令和3年8月に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

若桜町若桜伝統的建造物群保存地区保存活用計画

国指定の文化財

不動院岩屋堂

樹木に囲まれ、岩窟の中へと納まるように建つ高床式の建物の不動院岩屋堂の写真

修験道寺院の建築として知られ、天然の岩窟内にある懸造りの建物で、昭和28年に国の重要文化財に指定され、その後解体修理されました。 大同元年(806)飛騨の匠が建築したもので秀吉来攻のとき、兵火にかかり焼失し、この本堂だけが焼け残ったと伝えられています。本堂の不動明王は、弘法大師が33歳の時に刻んだもので『日本三大不動明王』の一つだといわれています。

五穀豊穣 家内交通安全 安全大護摩修行について

  • 春の大護摩修行 3月の第4日曜日午後1時~
  • 秋の大護摩修行 3月の第4日曜日午後1時~

(注意)新型コロナウイルス感染状況により、開催を中止する場合があります。

アクセス

若桜町営バス 吉川・落折方面乗車、岩屋堂停留場下車・徒歩2分

お問い合わせ

岩屋堂の拝観について
若桜町観光協会
  • 電話:0858-82-2237
  • IP電話:982-2237
岩屋堂の歴史について
若桜町教育委員会事務局
  • 電話:0858-82-2213
  • IP電話:982-2213

若桜鬼ヶ城跡

二の丸から本丸方面の若桜鬼ヶ城跡と、そばにある紅く色づいた紅葉の風景の写真

若桜宿の南側にそびえ、若桜鬼ヶ城跡が築かれた鶴尾山(つるのおやま;標高452メートル)は、播磨・但馬両国に通じる街道の結節点に位置しており、元和3(1617)年に廃城になるまで因幡の重要拠点として栄えました。

築城期は明らかではありませんが、中世期に在地領主の矢部氏によって築かれたと考えられています。戦国期は尼子・毛利・織田などの各有力大名が城を巡って、激しい攻防を繰り広げました。羽柴秀吉による因幡平定後は木下氏、山崎氏と城主が代わりました。その後、池田光政が因幡・伯耆の領主として鳥取城に入ると、一国一城令によって廃城となりました。

若桜鬼ヶ城跡は山腹遺構と山頂遺構に大別されます。山腹遺構は竪堀と堀切が南北の尾根沿いに造られ、小規模な曲輪(くるわ)群を形成しています。一方、山頂遺構は木下・山崎両氏の時代に整備がされ、天守台を備えた本丸を中心として、西側に約三段、北側に二段、南側に一段の石垣造りの曲輪が築かれ、複雑な構造をしています。また、石垣は廃城の際、人の手で破却された姿のままで残されており、一国一城令による破城の歴史を今に伝えます。

このように戦国期から近世初期にかけての山陰地方の国人領主の動向と、同時期の城郭の変遷を知るうえでの重要性が認められ、平成20年3月に国史跡に指定されました。

(注意:バスでご来場の際は道が狭い個所がありますので、事前にお問い合わせください)

登山道を利用される来城者の皆様へ

 若桜鬼ヶ城跡は山頂まで200メートルの標高差があり、舗装されていない道ですので、登る際は山登りができる服装・靴・装備で登城いただきますようお願いします。

 また、雨でぬれた登山道は大変滑りやすくなっておりますので、特にご注意ください。

(注意)御城印は若桜駅前バスターミナル観光案内所(電話0858-82-5500)で販売しております。

オオサンショウウオ

暗褐色で不規則な黒い斑紋が入り長い尾を持つオオサンショウウオの写真

オオサンショウウオは一名ハンザキとも呼んでおり、この仲間は古生代石炭紀に栄えましたが、現在は世界でも日本のほかに北アメリカに2種、中国に1種生息している4種類が知られています。

日本のものが最大で1メートルを超えるものもあり、姿形は3000万年以上の昔からほとんど変化していないため、“生きている化石動物”として有名です。

オオサンショウウオは昼間は穴に隠れていますが、夜になると盛んに行動して川魚、カエル、サワガニなど動くものが鼻先に当たると大きな口を開けて吸い込むようにして捕食します。

産卵は8~9月にかけて川岸の居屋と呼ぶ穴の中に数珠状の寒天質に包まれたものを500個ほど生み、約50日で体調2.5センチメートル程度の幼生が孵化し鰓呼吸をしていますが、3~5年すると肺呼吸にかわって行きます。

オオサンショウウオは、特別天然記念物指定動物として生態調査、繁殖実験等が試みられているものの不明な点が多く、今後末永く保護していくために環境保全を図らなければなりません。

イヌワシ

イヌワシは留鳥で、多くは山岳地帯で人の近寄り難い断崖の岩棚や、大木の樹上に直径2メートルにも達する巣を作り、2月頃の厳冬期に2卵を生み、約40日抱卵した後に孵化します。

孵化すると先に生まれた雛は、後に生まれた劣弱な雛を殺して1羽だけ大きくなって約80日かかり、6月頃に巣立ちます。

巣立ちから4年目で繁殖能力を持つようになりますが、それまで生き延びるのは幼鳥の4分の1ぐらいと見られています。

イヌワシの平均寿命は約15年といわれ、生活圏は6000ヘクタールと広く、野ウサギ、キツネ、タヌキ、テン、リス、キジ、ヤマドリ、ヘビ、時にはニホンザルなども捕食します。

イヌワシの分布は世界的にも広く、わが国でも昔は全国にわたって生息がみられましたが、最近では原生林の伐採など環境破壊の影響を受けて、急速に個体数が減少しています。

鳥取県内では東部に生息地が集中しており、中でも若桜町は全国でも有数の生息地ですが、最近ではその数が変動し生息が危ぶまれています。

ヤマネ

頭に一本の縦縞のあるつぶらな瞳のヤマネが木の葉っぱの上で丸まっている写真

日本特産の哺乳類で世界的珍獣のヤマネは、頭胴7センチメートル、尾5センチメートルばかりの大きさで、一見リスに似ていますがハツカネズミほどの大きさで、淡褐色の体色に頭部から尾の基部にかけて太い黒縦帯がとおります。

ヤマネは夜行性で昼間は樹洞内などでねむり、餌は種子、果実、昆虫などを好んで食べます。

ヤマネの妊娠期間は23~24日で、1産2~7子を、6月頃と10月頃の2回出産します。

この動物は哺乳類でありながら、体温の恒温性が不完全なため寒くなると体温は環境温度と同じになり、体温調節機能を失ったように見えます。

しかし、冬眠中に手を触れたり強い光を当てると、やがて体温が上昇し始め冬眠から覚めて活動することができます。

このようにカエル型の変温型冬眠やクマ型の恒温型冬眠とは違う独特の冬眠を行います。

冬眠は、普通気温が12~14度になる12月頃から翌年3月頃まで行われ、樹洞や小鳥の巣、軒下などで頭を腹部に曲げ、尾を顔に当ててマリのように丸くなってしまします。

ところが、冬眠中にカケス、カラス、キツネ、イタチなどに狙われ、8割近くが殺されてしまうといわれています。

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若桜町教育委員会事務局

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国登録有形文化財

若桜橋

山間の川に渡された、大きなアーチ状の若桜橋の写真

若桜橋は若桜の中心街の東端に位置し、八東川に架かる全長83.8メートル、幅5.5メートルの橋梁です。昭和8年10月に着工し、昭和9年7月に完成しました。総工費は4万6千円余り(現在の額にすると約1億5千万円程度)だったと記録されています。現在も一般県道若桜停車場線として利用され、若桜宿内へ入る重要な経路としての役割を担っています。
橋の材質は鉄筋コンクリートで、アーチ型の橋桁が3つ連続したデザインです。戦前にこのようなデザインを持つ橋梁は県内では例がなく、大変貴重な橋梁です。現在橋梁の横には融雪パイプや歩道が設置されているものの、完成当時からその姿はほとんど変わっておらず、当時の橋梁技術を知る上で大変貴重な文化財です。また、鳥取県立公文書館には建造当時の設計図や工事写真、工事に関わった職人の数など貴重な資料も多く残されています。
 このように戦前の橋梁技術の高さとデザイン、若桜の近代化に貢献した遺産としての価値が認められ、国登録有形文化財登録や土木学会推奨の土木遺産の選定を受けています。若桜橋は平成16年には土木学会選奨土木遺産にも選ばれています。

若桜鉄道施設23件

山を背景にした、道路沿いの紅い屋根の駅舎の写真
円形の溝の中央に線路が渡っている転車台、その脇の給水塔と桜の木、正面奥にはSLが停まった風景の写真

平成20年、若桜鉄道の施設23件が国の登録有形文化財となり、一路線がこれだけ多くの施設が文化財になる全国で初めての事例となりました。若桜町内では9つの施設が登録有形文化財となりました。

若桜鉄道の終点である若桜駅は昭和5年の開業から若桜の人々とともに歩んできました。

駅構内は木造平屋建ての本屋と石積のプラットホームをはじめとして、蒸気機関時代の名残である「機関車転車台」と「給水塔」がセットで残されています。駅構内を流れる「流雪溝」は雪を流すための水路で、雪の多い若桜を象徴した施設の一つといえます。

また、手動信号の操作を行った「物置及び灯室」、転轍機(てんてつき)を操作する係員が待機した、「東西の転轍手箱番所(てんてつしゅはこばんしょ)」、保線用車両を収める「諸車庫」などの一連施設が残され、昭和初期の終着駅の雰囲気を今に伝えています。若桜鉄道の沿線には、若桜駅と似た雰囲気を持った駅舎が5棟(丹比・八東・安部・隼・因幡船岡)存在します。

三倉川の下流には大正期頃鋳造の「若桜川橋梁」があります。プレートガーターは別の鉄橋に架かっていたものを改造し、転用したものです。その他にもそれぞれで姿の異なる橋梁(第一~第三八東川・岩淵川・細見川)、「雪覆」と「落石覆」が一緒に登録有形文化財となりました。

若桜鉄道沿線マップはこちら

木島家住宅主屋

街道の南側から見た、瓦屋根で木造2階建ての木島家住宅主屋外観の写真
畳張りの部屋の中に2階部分へと続く階段がある木島家住宅主屋の中の写真

 木島家住宅は江戸時代より宿場町として発展した「若桜宿」の街道沿いに所在します。明治期の2度の大火によって、宿内の家屋のほとんどが失われ、当時の住民によって作成された復興計画「八東郡若桜宿会議決書」の決議後に建てられました。

 構造は木造2階建、切妻造鉄板葺で、街道に面して伸びる瓦葺きの庇は若桜のまちなみの特徴で「通称・仮屋(かりや)」と呼ばれ、往時は雨雪をしのいで通行するためのアーケードとして利用されていたといわれています。平成24年に復原・改修工事が行われ、「休憩交流処かりや」として、飲食店・休憩室・展示ギャラリーなどに活用されています。

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若桜町教育委員会事務局

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県指定の文化財

中江の一本スギ

密集したスギの木の峠の風景の中、ひときわ大きく立つ中江の一本スギの写真

 国道29号を若桜から戸倉峠までの中ほどにある中原集落から、国道を離れて加地集落を通り、兵庫県宍栗市に至る県境に大通峠があります。

 この峠の1キロメートルばかり手前、中原より約7キロメートル地点の通称中江と呼ぶ標高850メートルの地点に、京都大学演習林で発見されたものと同種のアシウスギ(通称、中江の一本スギ)があります。

 中江の一本スギは胸高周囲4.80メートル、根元周囲5.64メートル、樹高約27.6メートル(平成20年調査より)の規模で、アシウスギはウラスギとも呼ばれ、葉の広がりが狭くなっており、積雪に耐える形態をしています。

扇ノ山の火山弾

台の上に展示されている、楕円型の赤褐色の火山弾の写真

扇ノ山の火山弾は、長径105センチメートル、短径57センチメートル、最長周囲172センチメートル、重さ366キログラムと、全国的に見ても大型の火山弾です。

これは今から約200万年前、扇ノ山(1310メートル)が噴火した際に、溶岩が空中を飛ぶ間に空気との摩擦によって中央部が膨らんだ紡錘形をしており、表面にはガス穴が認められるなど、扇ノ山の成因を調べるうえで貴重な資料となります。

現在では、鳥取県立博物館地学展示室にて展示されています。

この火山弾が発見された広留野付近は、扇ノ山すそ野標高800メートルで、諸鹿七滝と呼ばれる多数の滝と、見事な渓谷美で自然の秘境となっています。

若桜神社社叢

背の高い樹木に囲まれた、若桜神社の境内の写真

若桜神社は若桜の中心街の南東側に位置しています。古くから「松上大明神」が鎮座し、崇敬を受けていました。元は鶴尾山の八兵衛谷に鎮座されていましたが、矢部氏が若桜鬼ヶ城築城の際に現在地に移築したといわれ、その後の歴代の城主からも崇敬を受けました。羽柴秀吉が因幡に攻め入ってきた際には社殿などが焼失しましたが、のちの城主の木下氏・山崎氏によって再建され、郡中大社となりました。
若桜神社社叢の構成はシラカシを中心として、ヒノキやモミの木が混じった極相林となっています。極相林とは陰樹林(光量が少なくても成長することのできる樹木)のみが生育できる条件になった状態を指します。境内は巨大なシラカシが多く林立し、中には直径が90センチメートルを越える巨大なものも見られます。県内にはシラカシの割合が多い、成熟した照葉樹林が少ないことから、昭和57年に鳥取県天然記念物の指定を受けました。
境内に足を踏み入れると、神社の長い歴史とともに社叢が荘厳な雰囲気を醸し出しています。

木造大日如来坐像 金剛界胎蔵界

表面の漆箔がところどころ剥がれている、穏やかな顔つきの木造大日如来座像(金剛界)の写真
表面の漆箔がところどころ剥がれている、座禅を組んだ木造大日如来座像(胎蔵界)の写真

上写真の木造大日如来 金剛界胎蔵界(左が金剛界)は国道482号を氷ノ山方面の道中にある長砂集落にあった無動山永福寺の本尊で、同寺の廃寺に伴い現在は鳥取県立博物館に寄託管理されています。

仏像の高さは金剛界が110センチメートルに対し、胎蔵界が107センチメートルとやや低く、木造の寄木造(注釈)(よせぎづくり)で造られ、表面は漆箔塗(注釈)(しっぱくぬり)がされています。制作年代は平安後期とされ、制作者は弘法大師、行基と諸説あります。
集落に残る縁起などによると、元は鳥取の円護寺というお寺の本尊でしたが、中世期にお寺が兵火にあい、当寺へ移されたとされています。また、お寺の棟札によると、元禄8年(1695)に京都の仏師によって本尊の修理がされています。不明な点は多いですが、保存状態がよく、2体の本尊がセットで残る大変貴重な仏像です。

  • (注釈)寄木造…腕・頭など仏像の部位ごとに彫り、後で接ぎ合わせて一体の仏像にする技法
  • (注釈)漆箔塗…漆の上に金箔を貼る技法

三百田氏住宅

周囲に木の柵がある、山村の藁ぶき屋根の住宅の写真
天井には梁が見え、中央には囲炉裏のある広い板張りの室内の写真
住宅の間取り図

三百田氏住宅は、平成4年より約2年の歳月をかけて、因幡最奥の山村「吉川」の集落から移築復原した民家です。

その建築様式は、因幡地方の特徴である入り母屋茅葺き屋根、梁行4間桁行7間半のいわゆる「四、八」、大戸口が右寄りの「本建ち」のつくりで、内部は「広間型三間取り」です。

当家は、古くから吉川の庄屋を勤め「一代普請方合力人数帳」という古文書を今に伝えています。

一代普請方合力人数帳は、今回復原した主屋の他、土蔵や雪隠等の付属棟を建てた年代やかかった人工、使用材とその支払について記した貴重なもので、主屋は元禄7年4月に普請完成の祝いをしたと書かれています。

三百田氏住宅内 この民家のもうひとつの特徴は、一部の柱梁の仕上げに鉋が用いられている事で、同時代の民家に比べ新しい工法を取り入れているのは、播州の宮大工が普請したことと関係すると思われます。

また吉川の大火後建てられた為か、地場の材木を大切に工夫して用いているのが、見え隠れの小屋梁や床下の大引からわ判ります。

今では珍しくなった重厚な茅葺き屋根に太い梁や大きな囲炉裏は、庄屋らしい家格を感じさせ、私達に先人の生活の智恵や工夫といったものを教えてくれます。

木工芸[保持者:茗荷定治]

 若桜は古くから林業が盛んで、それとともに発展したのが木を使用した工芸技術です。若桜の木工芸は県の無形文化財に指定され、その保持者として若桜町出身の茗荷定治さん(現代の名工・鳥取県伝統工芸士)が認定されています。茗荷さんの作品は装飾に頼らず、長年の経験や勘から木の味わいを引き出されているのが最大の特徴です。現在は制作されていませんが、作品の一部をたくみの館にて展示しています。

氷ノ山のキャラボク群落

緑の葉が生い茂っているキャラボクの木の郡落の写真

キャラボクはイチイの変種で、葉がらせん上につき、地面をはうように成長するのが特徴です。氷ノ山のキャラボク群落は氷ノ山山頂より南西側の約3ヘクタールが文化財指定され、少なくとも大小26株が確認されています。群落中で最も大きな個体「大キャラボク」は7つの幹で構成され、樹齢数百年になると考えられています。
本群落は中国地方では大山に次ぐ規模であり、国内における分布地の一つとして価値が高く、また大山から離れた場所に群落があることもキャラボクの種の存続を考える上で重要な点であり、価値が高いといえます。
(注意)国定公園内のため、見学の際はルールを守っていただきますようお願いします。

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町指定の文化財

岩屋堂の納骨壷入五輪塔

竹林の中にある、苔むした岩屋堂の五輪塔の写真

岩屋堂の納骨壷入五輪塔は、水輪内部をくりぬき須恵器質の長頭壷を蔵しており、壷には火葬骨らしいものが納められています。

地水火風空の各輪には、四面に月輪で囲まれた梵字が刻まれており、形態から見て鎌倉末期から南北朝期ではないかとの見方もあるが、水輪内部をくりぬいた納骨設備をもつ五輪塔は鳥取県内では珍しいものです。

長砂与五郎の五輪塔

木立の中で、石の台座の上に建つ長砂与五郎の五輪塔の写真

長砂城主、長砂伊賀守の子、長砂与五郎の墓とされているもので堂々たる風格をもち、その規模は塔高185センチメートルで若桜町内最大です。

因幡誌、民談記によると与五郎は武功者としても毛利豊元の被官として感謝状を受けた人物で、この大五輪は寛政元年(1789年)に没後150年の年忌として下徳丸の百姓平兵衛が追善したものであると云われます。

伊勢道の道標4ヶ所

草木のある道沿いにある、伊勢道の道標(新町)の石の建造物の写真
周りには木々があるの伊勢道の道標(渕見)の石の建造物の写真
田んぼ沿いにある伊勢道の道標の石の建造物の写真
車道沿いにある伊勢道の道標(つく米1)の石の建造物の写真

 伊勢道の道標は町内に上写真の4基(左より新町、渕見、米2基)が残されています。江戸時代の若桜は宿場町として発展し、物資の売買や出稼ぎに加え、寺社参詣で人が行き来し、大変にぎわったといいます。特に、伊勢参りは人気が高く、集落で「伊勢講」という組織を作ってお金を貯め、年1回講の代表者が参詣していたそうです。
伊勢道は新町の道標から氷ノ山方面に進み、氷ノ越と呼ばれる峠を越え、兵庫県の関宮、八鹿、和田山を経て、京都府の旧大江町の元伊勢に至るルートだったと考えられています。元伊勢とは現在の伊勢神宮が鎮座する前に鎮座していたという伝承が残っている場所です。鳥取県東部では古くから大江の元伊勢に参る風習があり、伊勢道と呼ばれるようになったと考えられます。
なお、新町の道標には「従是ひだりハいせみち みぎハはりまみち」と記述されています。

若桜町歴史民俗資料館

広い庭で桜の木が満開に咲いている、赤い瓦屋根の若桜町歴史民俗資料館の外観の写真
土間の向こうに2つの畳の和室が見えている、若桜町歴史民俗資料館の室内の写真

若桜町歴史民俗資料館は、昭和56年3月20日山陰合同銀行若桜支店の社屋新築にあたり、旧社屋を譲り受けて移転復元したものです。

この建物は、明治時代(明治40年創建)の典型的な土蔵造りで、豪商の面影を伝えており、当時、銀行の威信にかけ銘木を駆使した斬新な設計で、外観についても間口に比して低い軒、どっしりと品よく調和した入り母屋造りで、特に土蔵の妻の技巧が正面に配され、全体として変化に富んだ美しさを現出しています。

無動山永福寺の山門

山々の前に建つ、石の灯篭の先の朱色の山門の写真

無動山永福寺の山門は、昭和56年10月15日若桜町大字長砂地内、無道山永福寺跡より、若桜町歴史民族資料館隣に移転復元したものです。

現在、廃寺される無道山永福寺は、県の保護文化財に指定される大日如来像(胎蔵界、金剛界)を本尊としていた寺として知られています。

石碑(忠魂碑)

真っ赤に色付いた紅葉の木々に囲まれた、巨大な石碑の写真

忠魂碑は、帝国在郷軍人若桜分会により総経費8千円(現在の金額に換算すると約2,500万円)をかけて大正9年(1920)に建立されました。高さ6.97メートル、胴回り7.27メートル、正面巾2.12メートル、重量56.25トンと巨大なため、その建立には多くの人員と日数がかかりました。

「忠魂碑」と彫られた題字は当時の帝国在郷軍人会長を務めていた川村影明元帥によるもので、題字の溝には、米1石2斗(約216リットル)が入ることからも、その巨大さがわかります。

若桜神社大祭

たくさんの人たちに担がれて街並みの中を行く神輿の写真
快晴の下、揃いの青い法被を着て歩く男性衆の写真

若桜神社を中心に行われる江戸時代から続く祭礼行事で、御幸行列は隔年の5月3日に開催されます。行列には3基の神輿を中心に榊、奴の舞、御幟、本面(面を被った道化役)、麒麟獅子など数多くの役割が若桜地内を練り歩き、県内でも有数の規模を誇ります。以前は「割り場」といい、氏子が持ち回りで祭礼の統括、神輿、榊等を担当していましたが、現在は氏子から委員を選出し、大祭委員会を組織して運営が行われています。

麟獅子の詳細はこちら

浅井御番所日記

色あせて、紙の端が反り返っている浅井御番所日記の表紙の写真
旧書体の筆書きで記された、浅井御番所日記の見開きの写真

若桜町浅井地内に江戸末期に設置された番所の記録で、現在はわかさ生涯学習情報館の郷土資料室に展示されています。文久3年~明治2年(1863~69)までの記録が部分的に残り、当時番所を通行していた民衆の動向が分かる貴重な資料です。

番所の業務日誌に加え、番所の通行理由が分かる資料である「印鑑渡控」、他の番所から来たことを証明する「他所印鑑付留帳」も部分的に残されています。

諸鹿村御検地帳

年月を経た紙が茶色く日焼けしている、諸鹿村御検地帳の表紙の写真
項目が縦書きで規則的に記された、諸鹿村御検地帳の見開きの写真

江戸時代初期、池田氏が入国した際に行った検地の記録で、山切畑、畠方の2冊が残されています。作成年代は元和4年(1618)4月とあり、同時期の因幡地方の在郷の状況を知ることができる数少ない史料であり、大変貴重といえます。
(補足:写真は畠方[若桜町所蔵])

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